日本は民主主義の国である。裁判員制度の導入は、その視点から見ると、当然な成り行きだ。しかし、裁判員制度は早くも困難に向き合っている。死刑判決を下した裁判員は、重大な責任を持つ。確かに、死刑判決に関する裁判に裁判員を関わらせるのには、早すぎるのかもしれない。しかし、市民が責任感を感じるのは、良いことでもある。
市民が国の現状や、将来に発言力や権力を持つことに、民主主義は、基づくものである。市民がこういう判断に加わることによって、国の正義のあり方に関心を育てやすくなる。罪をおかした可能性のある人の顔は、容疑者、又は被告人として、テレビに写る。実に罪というのは、遠い世界の様である。しかし、被告、そして、罪とは、社会の一部であり、それを受け入れて犯罪を防ぐことに、市民は働く義務があってもおかしくない。今の社会は、犯罪歴がある市民に加え、その家族を社会から疎遠にする傾向がある。それは、簡単であるが、その人間の存在を避けることによって、新たな犯罪を防ぐ機会、もっと良い社会をつくる機会を捨てているのだ。社会人が裁判員になることによって、なぜ犯罪が起きたのかを考えるきっかけが与えられる。考える上で、社会全体に関心をもつことにもなる 。どのように人とつながりを持つか、どうのように人と一緒に助け合いながら生きるか。『自』の世界から『公』へと視野が広がるのではないのか。そして広がった視界があることによって、より良い社会作りに貢献することが出来るであろう。
今の裁判員制度上、決して、判決に職業裁判員官の経験や知識が関わらないわけでもない。いわば、一般市民の意見や良識を裁判の判断に加えるということが、この制度の目的だ。それによって、出来る限り、独裁的な判断を避けようとしているのだ。一般人が国の正義や社会作りに関わる大事な一歩が始まっているのだ。裁判員制度導入の初歩の問題に向きあって、より良い民主主義的な正義のあり方を考えることは、大事なことである。